みなさんからのコメント      
 
 
 
  素晴らしい!の一言。
 
   
  こんなに厳しく、こんなに切なく、こんなに熱く美しいドキュメンタリをはじめて見た。
 
椎名 誠(作家)
   
  関野吉晴がモンゴルで会った可憐な少女プージェーの逞しくも哀しい物語が、心に突き刺さる。
 
惠谷治(ジャーナリスト)
   
  厳しい自然の中で人は「生き物」にすぎない。しかし、その生き物の面構えは、崇高で美しい・・・
「一期一会」の言葉の重さも、この映画で知った。
 
春風亭昇太(落語家)
   
  この、たったひとりの少女と出会うために、関野は350万年の旅を遡行し続けて来たのだろう。
そう思えるほどこの感動は深く壮絶である。
 
龍村 仁(映画監督「地球交響曲ガイアシンフォニー」)
   
  自然のいとなみの中で生きるということ、「出会い」のもつ意味深さ。命がしみじみといとおしい。
 
渡辺一枝(作家)
     
  裸馬に颯爽とのるプージェーの魅力に引き込まれた。
少女の貧しいけど豊かな人生が愛しく、彼女の人生の光と影に打ちのめされ、 そして、切なくて泪がでた。モンゴルの遊牧民と関野氏に、無性に会いたくなった。
 
 
木村通宏(医師)
 
     
 
 
   
   
   
「草原を駆け抜けた少女/探検家・関野吉晴が出会った/モンゴルの少女・プージェー!」というプレスの解説に要約されたとおりのドキュメンタリー映画です。山田和也監督作品。
茫漠たるモンゴルの平原のまんなかで馬を駆る6歳の少女に思わず微笑み、魅せられてしまう冒頭から、痛みに近い感動に胸をしめつけられるラストまで、静かな、さりげない画面の連続なのに圧倒的な(どんな劇映画もおよばないくらいの)劇的な迫力にみちた記録映画です。
「ドキュメンタリーの父」ロバート・フラハティの『極北の怪異(極北のナヌック)』(1922)や土本典昭の『パルチザン前史』(1969)が、その後日譚とともに、どんなに劇的な人生を描いていたかを想起させました。
「サスペンス映画の巨匠」(もちろん記録映画作家ではない)アルフレッド・ヒッチコックが「大事なことは、ある位置にキャメラをセットしてシーンの撮影をおこなうとき、とにかくそのシーンに最もドラマチックな衝撃力をもたらすことができるかどうかを知ることだ」と語っていたことなども思いだしました。
すばらしいの一語につきる必見の一本です。
 
山田浩一(映画評論家)「試写室だより! 封切はこれからだ2006」
   
  「プージェー」は探検家で写真家の関野吉晴とモンゴル草原に生きる少女の交流をつづったドキュメンタリー映画で、全篇、感動にあふれているが、どう見ても、特別な技巧や作為が凝らされているとは思えない。いわば手ぶらで被写体に向かっている。
関野吉晴自身がまず、カメラを構える以外、何の構えもなくゼロの状態で少女プージェーとその家族に接し、そんな様子がそのまま作品のあり方になっているのである。
すると、被写体の素晴らしさが純粋に結晶して感動を生むということか。ある一面ではそうであろうが、それだけではあるまい。やはり手ぶらの力である。超技巧とでもよぶべき手ぶらの前でこそ、少女の家族も飾り気のない素晴らしさをくりひろげるのにちがいない。裸馬に股がった六歳のプージェーの美しさには、作品全体の魅力が凝縮されている。」
   
山根貞男(映画評論家)「2006年キネマ旬報9月下旬号より抜粋」
     
    今年見た映画の中で、一番心に響いたかもしれない。ドキュメンタリーならではの、現実のモンゴルが、そこで今、生きている人たちの感触が伝わってくる。
生きるっていうこと、生命っていうもの、なんかいろんな想いがばっとこみあげて、何よりもプージェーという女の子の生命の力を感じて、よけい切なかった。久々にドキュメンタリーの力を味わった。
ぜひみんなに見てほしいです。
   
(シネやまなし東京支部)
     
    プージェーと関野さんの出会いのようなドラマを、日常の中でたくさん逃してしまっているのかもしれないと思いました。再生産できない瞬間を切り取ることが出来る、そして人に伝えることが出来る仕事として、ドキュメンタリー映画って面白い!とおもいました。瞬間、瞬間、こゆ〜く生きてみたら、人生の味わいが変わってくるかな。意識して、私もやってみよう!
   
(学生)
    草原の少女との交流を描いたドキュメンタリー映画「プージェー」
  「プージェーにまた会いたい」。4歳の娘が起きぬけにつぶやいた。
プージェーはモンゴルの遊牧民の女の子の名前。私たち親子がその少女に出会ったのは、前日出掛けた映画のスクリーンの中でだ。
冒険家・関野吉晴さんをご存知だろうか。人類発祥の地東アフリカから南米まで、人類が拡散した5万キロの足跡・グレートジャーニーを、自分の脚力と腕力を頼りに逆ルートで旅した人物だ。その関野さんが途上のモンゴルでプージェーに会う。
自由に馬を操る幼い少女に思わずカメラを向けると、「馬が恐がるからあっち行って」と、さも不快な表情を向けられる(この顔が印象的)。堂々とした少女に関野さんは魅かれ交流が始まっていく。
祖母、寝たきりの祖父、母親、2歳のいとこ、男手のないプージェー一家の暮らしは大変だ。6歳のプージェーも家事手伝いは勿論、家畜の世話を一手に担っている。その頃、市場経済が導入されたモンゴルでは貧富の格差が生じ、遊牧民の暮らしはもろに影響を受けていた。
彼らの財産である家畜の盗難が相次ぎ、プージェー一家も被害に遭う。母親は盗まれた馬を探しに出かけて行く。モンゴルの草原で1人闇を迎える恐怖を想像すると体が震える。草原の広大さ、寒さ、闇の恐怖を知り尽くしながら馬に跨って行くプージェーの母親のように私にできるだろうか。黙々と仕事をこなしながらお母さんの帰りを気丈にも待つプージェーのように、我が子らは待っていられるだろうか。
効果音をほとんど使わない映画の手法は、遊牧民の暮らしの音がよりリアルに伝わってくる。草原に響く恐いような風の音、あられ混じりの雨が落ちる痛そうな音。登場人物の声、馬や山羊の鳴き声、生きている音に耳をすまさずにはおられない。
カメラが見守り続けた5年間の最後、プージェーとの再会を楽しみにしていた関野さんに、予想もしなかった悲しい知らせが待っていた。しかし、この映画は甘ったるい同情や感傷を押し付けることを拒む。厳しい現実にそっと寄り添うカメラの視線は、観る者の心をセンチメンタリズムの先へと動かしていく。 プージェーに出会って、空を眺めたくなった。風の音、草木の揺れる音、自分や隣を歩く人の足音に注意深く耳をすませたいと思った。そして、この瞬間生きている幸せを、遠いどこかで人々が、確かにそれぞれの生を営んでいる幸せを感謝したくなった。 故郷の皆にもプージェーやその家族に会ってほしい。きっと心が動き始めるはずだ。その方向はあなた次第。行く先で再会だってできるはず。草原を駆け抜けた少女は、出会った人の心に長く生き続けるはずだから。
   
新里涼子 フリーライター